「十牛図」後半、五つの段階を紹介します。
後半ではより深淵な「悟り」の世界に入っていき、容易には実践できそうもない「境地」を説明してくれます。
こころの問題を抱える人達にも、更に自分を解放していく生き方を示してくれるものとして参考にしてください。
6:騎牛帰家(きぎゅうきか)
すみのぼる こころの空にうそぶきて たちかえりゆくみねのしらくも
「真の自己」を我がものにして、その自己(牛)に乗って我が家に帰るの意である。真の自己と我が一体となって心の平安を得て、我を意識で制する必要がなくなった段階。
牛が無心であれば、我も無心の状態となって、山中などで修行を積んだ者が山から下りて、人里に戻ってくる姿を現している。
7:忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
よしあしと わたる人こそはかなけれ ひとつなにわのあしと知らずや
家に戻り安らぎの中で生活していると「真の自己」を掴まえたことを忘れ、真の自己自体を忘れている境地に入った段階。
「真の自己」を獲得したという悟り自体がこだわりであり、それを求めていた理由を忘れ、捉えた真の自己を忘れ、捉えたことも忘れてしまう。
8:人牛俱忘(じんぎゅうぐぼう)
雲もなく つきもかつらも木もかれて はらいはてたるうわの空かな
もとよりも こころの法はなきものを ゆめうつつとは何をいいけん
牛を捜し捕まえようとしていた理由を忘れ、捉えた牛を忘れ、捉えたことも忘れてしまう。そして「忘れる」ということも無になった段階。
悟りもなければ、悟られた法もなく、悟った人もないという境地。
禅宗では円を描いた「円相」でその境地を現すことが多い。
9:返本還源(へんぽんげんげん)
法のみち あとなきもとの山なれば 松はみどりにはなはしらつゆ
「鏡」のように、移り行く世界の姿をありのままに、分別のないきれいな心で見てゆく段階。
静かに眺めてゆけば、善もなければ悪もない、損もなければ得もない、迷いもなければ悟りもない、鏡が物を映すがごとくに世界の姿をありのままに映していける。
我もなければ牛もなく、我と世界との対立もない。時間も空間も超越し、何も思うことがない無垢の心が、宇宙と一体となることである。
10:入鄽垂手(にってんすいしゅ)
手はたれて 足はそらなるおとこやま かれたる枝に鳥やすむらん
悟りを開いたところで、再び世俗の中に入って、悩める人々を安らぎの世界へと導くことに我を生かす段階。
牛を尋ね、足跡を見つけ、牛をとらえて、牛を飼い馴らし、牛に騎って我が家にかえってきた。帰ってきたら牛を忘れてしまって、そこに自分だけが残る。そして牛も自分も忘れてしまい、天地の森羅万象がそのまま宇宙の根源であると、徹して生きるのである。