人を裁くということ

「人を理をもって裁けば、己も理をもって裁かれる」

 

聖書に出てくる言葉ですが「人を裁く」ことで、自由で寛容な気持ちを見失っていることに気付いていますか?

 

人の行為や失敗を見て「この人はダメだ…この人は役立たず…この人は嫌い」などと、自分の価値観を基準に他人を裁いている意識のことです。

 

自分を基準に他人を「白・黒」と分類するごとく裁いていますが、世の中は「多様性」で成り立っている事に実感が持てると、「裁いている」自分に、人としての「包容力」が低下してることに気付く筈です。

 

「裁き」が習慣になると自分本位のため、他人の欲求が読めず、相手が何を欲しているかを感じられません。私が好きだから相手も好むだろう、私が良いと思うから相手も良いだろうと、他人への善意の行為が、迷惑になってしまう事が起きます。

 

 人を観る「勘」が鈍ってしまい「勘」が使えなくなります。

 

また人を無意識に「裁いている」と自分で自分を「裁く」ことに繋がります。失敗をした自分が情けない…ダメな奴だ…などと裁き、自己否定を繰り返し、頑固で厳しく遊びのない「雰囲気」を抱くことに繋がるのではと思います。

 

 人を裁くことをしなければ、自分を裁くことからも離れられます。

 

自由で型にはまらない行動と思考、価値観があって良いのです。多様性を認める気持ちを育てると、自分も「快」に生きられます。

 

 融通無碍(ゆうずうむげ):行動や考えが何の支障もなく、自由で伸び               伸びしていること

 

「裁く」自分の存在を知ったならば、他人も心地好く、自分も心地の好い「境地」に近づける意識を、我の中に育んでいきたいものですね…。