友人のお父様が、職場を早期退職し、暫くして、四国の巡礼に出発することになりました。退職する前から、一生のうち一度は「お遍路さん」へ行きたいと、夢見ていたとのことです。
早朝ランニングで足腰は鍛えていたので、体力には自信がありました。
その決意を聞いた、お父様の友人やご近所の知り合いから、多くの餞別を頂戴し、激励されての出発でした。
二週間もすると、お父様は平然と「八十八箇所巡りを終えてきた」と自慢げに帰宅しました。聞けば巡礼開始早々、車で巡礼をしていた初老の紳士に出会い「一緒に車で行きましょう」と誘われ、殆どの寺院を車で訪問したそうです。
足腰の不自由な巡礼者は、車やバスで移動するとは聞いていましたが、友人たちは、呆気に取られてしまいました。
昔ながらの徒歩での巡礼では、一ヶ月半は要するところです。
巡礼という心意気に感激し、餞別まで持たせた友人・お知り合いの方々の「気遣い」が裏切られたと感じ、怒り出す知人の方もいたそうです。
お父様にとって最大の目的は、八十八箇所の寺を訪問する事であって、汗を流し、痛い足を引きずりながらも、道中多くの出会いを重ね、地域の人々の親切に触れて、感動を覚えることや、人生を省みながら、無心で歩くことではなかったのです。
「巡礼した」という事実だけに達成感があり、その「過程」に価値を見ていないだけです。
本能的に、ご本人にとって車両での移動は「損か得か」の計算と「スピード」への価値意識が強く働き、これが行動となって現れました。
人の欲する方向を知り、無意識で働く、その方の「本質」を理解できれば、一時の「怒り」も治まってきますよ!